ブックタイトルクムレ60年の歩み 概要版

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概要

クムレ60年の歩み 概要版

〈音楽領域〉では、耳から育て、繰り返注し練習する「スズキ・メソード)」の教育法に基づき、本物の素晴らしい音楽に触れることで子どもの音楽的センスを高めていった。〈絵画・造形領域〉では3原色(赤・青・黄)の絵の具を混ぜ合わせて色を創りだす「加色混合法」や「観察画」などを実践。子どもたちが、自分で感じたままを色や形で表現し創造する力を養った。〈言語(英語)領域〉では、平成2年に、浅田理事長が注「ドーマン式)「小ざくら方式」の実践例を」による右脳開発として、まとめ出版した漢字カードやフラッシュカード、ドッツカードなどを学習教材に採用。昭和58年には当時としては珍しいマイコンを導入し、翌年からは外国人女性講師を招き、英会話保育も行った。〈体育領域〉では、脳の発達を促す赤ちゃん体操をはじめ、0歳児から年齢に応じたさまざまな遊具を使って体育活動が行われた。〈障がい(統合)領域〉では、同じ園内にある「小ざくら園」との交流を通じ、健常児と障がい児が分け隔てなく関係を育んだ。ハンディキャップを理解しながら、互いに区別されることなく“人として”の成長を見守る「統合保育」は、「光明会」が目指すノーマライゼーションの考え方を具現化するものだった。「小ざくら方式」の実践によって、子どもたちの知的能力や運動能力、表現力のいずれにもめざましい成長が見てとられた。“よりよい環境の中でのよりよい保育”、そして“0歳からの可能性への挑戦”を掲げ意欲的な保育園として発展した時期でもあった。?地域の子育ての拠点、小ざくら地域保育センター平成2年10月、「小ざくら保育園」の付帯事業として「小ざくら地域保育センター」がスタートした。これは、地域の子育てを幅広く支援するためのもので、集団生活の経験のない子どもたちとその母親に園を遊び場として開放したり、離乳食づ注)スズキ・メソード帝国音楽学校のヴァイオリン教授であった鈴木鎮一が提唱した教育法。母国語と同じように耳から音楽を教える「母語教育法」を確立したことで知られる。注)ドーマン式脳障害児の治療実践から、子どもの潜在能力の素晴らしさを発見したグレン・ドーマン博士による教育法。パターン認識(右脳活動)に優れている幼児期を利用し、視覚的知性や聴覚的知性を高める学習教材「フラッシュカード」や「ドッツカード」などを考案。くりや育児相談、子育て講演会などさまざまなイベントが行われた。一方で、転勤などで社会的に孤立し育児に不安を抱える若い母親やひとり親家庭に対する子育て支援も展開。地域子育てのセーフティネットとしての役割を発揮し、今も虐待予防の視点も含めた身近な受け皿として継続的な活動を行っている。?昭和56年以降の夜間保育昭和55 ? 56年にかけてベビーホテルと呼ばれる無認可の保育施設で乳幼児の死亡事故が相次ぎ、大きな社会問題となった。女性の就労と子育てとの両立支援の動きが高まる中、国は昭和56年に夜間保育事業を創設。「小ざくら夜間保育園」はこの制度に伴い認可夜間保育園第一号として再スタートを切った。延長保育と夜間保育の先進的な取り組み例として、当時全国から保育関係者の見学が相次いだ。夜間保育の定員は30名で、家庭的な雰囲気づくりを大切にし、より生活に寄り添った保育が行われた。翌年には園の2階に夜間保育園専用の部屋を増築している。昭和62年当時、クムレの財前理事長が保育園の事務長を務めた?精神薄弱者更生施設「あしたば」開園一方、障がい児・者の療育現場では、昭和から平成にかけて、15歳以上の重度知的障がい者の受け入れ施設の不足が問題になっていた。措置制度の時代においては、いったん施設に入所するとそのまま長期化する傾向があり、そのため、地域には重い知的障がいを抱えながらも施設に入ることができず、在宅生活を余儀なくされる人もいた。日中活動も十分なされず、24時間介護をする家族の負担も大きかった。「倉敷学園」に通園していた重度の障がい児についても養護学校卒業後は行き場がなく、新しい施設への要望は切実だった。そんな中、「光明会」でも成人の知的障がい者のための4