ブックタイトルクムレ60年の歩み 概要版

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概要

クムレ60年の歩み 概要版

クムレ60年の歩み?水島の発展と保育の充実?昭和40年代?昭和30年代後半頃より、水島地区は臨海工業地帯の建設で企業の進出が相次いだ。昭和40年頃になると好景気の中で全国から人が集まり、核家族世帯が増え、主婦の就労も増加。保育園には依然として、親が心配なく子どもを預けられる場所としての役割が求められた。そうした中でも「理論に裏付けられた保育」を実践。先進的な幼児教育の講義や研修に保母を参加させ、保育内容を日々向上させていった。この取り組みが評判を呼び、毎年定員を超える入園希望者が集まった。昭和46年にはプレハブ園舎を増築。昭和49年には夜間保育園のニーズが高まり、倉敷市の受託事業として「小ざくら夜間保育園」を開園した。?園舎を移転。養護を重視した保育と障がい児療育の専門化昭和40年代後半から50年代前半にかけて、水島の街は活気に満ちていた。保育園の需要増、そして入園希望者の増加から、さらに定員を増やさざるを得ない状況となった。しかし旧園地では対応ができないため、園舎の移転、新築の話が持ち上がり、水島北幸町の国有地の無償貸与を受けた。昭和50年4月には「小ざくら保育園」は幼児240名乳児60名計300名定員の大規模保育園として新たな一歩を踏み出す。さらに、0・1歳児を対象とした「小ざくら乳児保育園」を独立、開園。養護面の十分な援助を最優先にし、乳児保育では親に代わるようなスキンシップを重要視していた。また「小ざくら夜間保育園」も移転・併設。核家族で夜まで飲食店を経営している家庭、ひとり親で変則的な就業をせざるを得ない家庭のニーズに合わせ、朝から夜間までの保育を実施した。一方、「小ざくら保育園」開園以来、毎年2、3人は障がい児を受け入れていたが、適切な療育ができていたとはいえなかった。理事の雨宮茂氏より、名古屋で行われていた心身障がい児通園事業が紹介され、障がい児の専門的な療育施設として倉敷で最初の事業所「小ざくら園」を開園。4つの施設が併設する形となった。昭和50年6月には倉敷市心身障害者父母の会による「友愛セール」を「小ざくら保育園」で開催。昭和52年11月には地域の在宅の障がい児たちを招いて「小ざくらの集い」を開催した。地域の理解を深める大きな意義のある年中行事としてその後10年間にわたり続いた。?倉敷学園開園。障がい児自立への大きな歩み昭和50年代初め、「小ざくら園」の子どもたちは就学年齢に達しても小学校での義務教育を受けることができないという、いわゆる「障がい児に対する就学猶予・就学免除」が問題になっていた。保護者の熱心な後押橋本龍太郎・衆議院議員(左)が精神薄弱者通所援護事業ひまわりの園を訪れたしで「小ざくら園」卒園後時の園児とのふれあいの場面(右に浅田弘義氏)の学齢児通所療育施設の設置へ向けて陳情などを行い、学齢児の2クラスを近隣の「旭丘小学校」の特殊派遣学級とすることで、昭和53年4月に「精神薄弱児通園施設倉敷学園」が開園した。さらに「倉敷学園」の卒園後「障がい児が成長し社会人になってからも最後まで関わりをもち続ける」という基本姿勢のもと、昭和54年には水島瑞穂町に「精神薄弱者通所援護事業ひまわりの園」を設立した。「ひまわりの園」は昭和56年に「社会福祉法人ひまわりの会」として独立した法人となり、福田町浦田に「精神薄弱者授産施設ひまわりの園」として再スタートした。養護と教育の一体化を目指した新しい保育の幕開け昭和50年代後半?平成10年?特色のある保育への転換。領域別保育「小ざくら方式」発足昭和50年代半ば頃から出生率の低下が保育所にも波及し始め、保育所もこれまでの量の確保から教育面にも力を入れた質の充実への転換期を迎える。昭和57年には、子どもの能力開発のための領域別保育「小ざくら方式」を発足。「小ざくら乳児保育園」(0・1歳児)と「小ざくら保育園」(2歳?就学前)の大きな集団の中での一貫保育を基本に、「養護と教育の一体化」を目指す取り組みが本格的にスタートした。領域は音楽、造形・絵画、言語(英語)、体育、障がい(統合保育)の5つに分けられ、発達年齢に応じたカリキュラムが組まれた。3