ブックタイトルクムレ60年の歩み

ページ
18/60

このページは クムレ60年の歩み の電子ブックに掲載されている18ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

クムレ60年の歩み

水島の発展と保育の充実?昭和40年代?昭和30年代後半頃より、当時の三木行治岡山県知事の構想のもと、水島地区には鉄鋼・石油化学コンビナートを中心とする臨海工業地帯の建設が始まり、日本鉱業(現JX日鉱日石エネルギー)や川崎製鉄(現JFEスチール)をはじめとする企業の進出が相次ぎ、労働人口は増加の一途をたどった。昭和40年頃になると水島地域の住民の仕事は安定。会社勤めの人が多くなり、経済的にも豊かになった。好景気の中で全国から人が集まり、核家族世帯が増えた。また、この頃から急速に主婦の就労が増加し、それに伴い保育園への需要は一層高まった。工場勤務は3交代制のところも多くなり、また大きな病院も次々建設され、そこで働く看護婦も増えた。そのため依然として保育園には、親が心配なく子どもを預けられる場所としての役割が求められた。空から眺めた水島市街(昭和40年頃・岡山県立記録資料館所蔵)しかし、そうした日々の業務の中でも、弘義氏は常々「理論に裏付けられた保育の実践」を職員に説いていた。「経済的に豊かな家庭は幼稚園、貧しい家庭は保育園」という風評に対し、先進的な幼児教育の講義や研修に場所の遠近を問わず保母を参加させ、スキルアップのための研鑽を積ませることで、保育内容を日々見直し、向上させていった。安心できる保育内容と先進的な取り組みが評判を呼び、「小ざくら保育園」には毎年定員を超える入園希望者が集まった。通園範囲も、開園当初の徒歩圏内から、東は北畝、南畝、西は連島まで、水島地域全域から園児が通うようになった。多くの入園希望者が集まるようになってからも、職員全員が「高い理想と福祉の精神と根拠ある保育の実践」を掲げ、保育内容を改善していった。例えば「物の手渡し」では、子どもたちが右手で受け取りをする習慣をつけるため、保母はあえて左手で手渡しをしていた。このように、日常の一動作にも細かな配慮がなされた。また、個別の保育内容を保護者に伝えるために「連絡ノート」を活用。保護者に「少しでも多く子どもと遊んであげてください」などの所見を書き、保護者からも気づいたことなどを返信してもらうにしていった。子どもの日常の様子を伝え、いかに保護者が安心してわが子を預けることができるかということに心を砕いた。16