ブックタイトルクムレ60年の歩み

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概要

クムレ60年の歩み

開園当時の「小ざくら保育園」園舎、般若寺別院(自宅)注)一方園児の食事は、基本的に主食を持参し、それに加えてララ物資の脱脂粉乳が提供された。当時の水島には道端にカボチャや大豆などを植えている住民もいるなど、経済的に苦しい家庭が多かった。家では食うや食わずの園児にも配慮して、園でできる限りの食事を提供することもあった。当時、保育園には門や塀がなく、子どもたちはどこからでも自由に出入りができ、保母の目を盗んで勝手に外に出て遊ぶことなど日常茶飯事だった。居なくなった子どもを探しまわることは本当に一苦労だったが、麦畑の中で楽しそうにカエルと遊んでいるのを見つけて胸をなでおろすなど、幸い事故など危険な目にあった園児がいなかったのは良かったことだ。当時の保母は園児の送迎や残務処理などがあった。「赤い羽根共同募金」から支給された布おしめを毎日たらいで手洗いしたり、町々の公園を回り、「小ざくら保育園」の仕組みや幼稚園との違いについて啓蒙・宣伝を行ったりし、夜10時過ぎに帰宅する毎日だったという。手探りから始めた開園当時には、このような逸話や苦労話があった。行事は、花まつり、盆踊り、運動会、遠足、お遊戯会などがあり、これらの年中行事には力を入れ、法人理事のほか、地域の人々や保護者の協力のもとに準備が行われた。生きるために仕事や生活に追われている保護者にとっては、わが子の成長を確認し喜びを分かち合う場として、また当時乏しかった娯楽の場としても大きな役割があった。12月末の餅つきでは、つきあがった餅を各家庭に何個かずつ持ち帰っお遊戯会(昭和32年)注)ララ物資「アジア救援公認団体」(Licensed Agencies for Relief in Asia:略称LARA〈ララ〉)が提供していた日本向けの援助物資のこと。昭和21(1946)年1月より昭和27(1952)年6月まで、米粉、小麦粉、うどん、米、乾燥スープ、粉全乳、脱脂粉乳、缶詰、ビタミン剤などの食料のほか、古着、石けん、薬品、医療器具など、約1万6,700トンの援助物資が送られた。14