ブックタイトルクムレ60年の歩み

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概要

クムレ60年の歩み

第1章水島の地に根ざした保育け、「小ざくら保育園」の園舎が「般若寺」別院の土地に着工されたのは昭和29(1954)年5月のことであった。設計のほとんどを弘義氏が担当し、こだわりの詰まった園舎が形になっていった。園舎は翌30(1955)年3月に竣工し、マッチ箱のような旧社宅群とその周りの砂ぼこり舞う空き地や造成地の中に建つ、ピンクとグリーンに竣工間近の「小ざくら保育園」塗り分けられたモダンな建物として地域の話題となった。そして4月に「小ざくら保育園」が開園。当時の定員は幼児が90名、乳児が10名の計100名で、開園当初より障がい児も分け隔てなく、一緒に保育を行っていた。昭和20年代?昭和50年代前半人情厚い時代の保育?昭和30年代?昭和30(1955)年の創立当時は「明るく元気な子どもづくり」を目標に保育を行っていた。産後間もない母親の就労を支援するため、生後6カ月から受け入れを行っていた。クラス編成は雪組(5歳児)、月組(4歳児)、花組(3歳児)、桃組(3歳未満児)の4クラスでスタート。保育時間は午前7時30分より午後6時までであったが、家族が送迎できない場合は保母が6 ?10人程度の園児たちの送迎を行っていた。保育園が誕生して間もない頃は、保育園そのものが子どもにとって馴染みがなく、母親に連れられ登園した子どもは母親と離れる時に泣いて嫌がる光景がしばしば見られた。開園当初、弘義氏は園長と住職を兼務していたため、園児は弘義氏のことを「お坊さん」と認識していたという。やがて保育園・「光明会」の運営に本腰を入れるため、別院の檀家すべてを「般若寺」に移した。その後、園内の遊具、御下賜金でプールを、さらには花壇の前に弘義氏手作りのキリンを設置し、園児や地域の人々からは「キリンの保育園」と呼ばれていた。開園当時は、乳児室には別院の仏間が使われており、縁側が広く、日当たりの良い遊び場になっていた。冬には大きな掘りごたつの周りで昼寝をしていた。当時は食料事情が悪く、乳児の健全な発達のために何とかして栄養を補おうと、煮干を粉にしたふりかけや、いろいろな野菜で工夫した離乳食を作り、子どもたちに提供していた。クムレ60年の歩み13