ブックタイトルクムレ60年の歩み

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概要

クムレ60年の歩み

第1章水島の地に根ざした保育小ざくら保育園誕生「社会福祉法人クムレ」の前身となる「社会福祉法人光明会」を設立することになる浅田弘義氏は、福田町福田にある「般若寺」という寺で代々住職を務める家の長男として生まれ育った。旧制倉敷天城中から高野山大学に進学後、特別操縦見習として志願したが、出撃することなく終戦を迎えた。その後、実家の「般若寺」に戻り、檀家を約360軒もつ別院(現在の水島西弥生町)の住職となった。そこで近所の子どもたちを集めて「日曜学校」を開き、講話や遊戯を行っていた。ときどき警察予備隊(現在の自衛隊)の人たちが来て、子どもたちと一緒に遊戯に参加してくれたという話が伝えられている。浅田弘義氏が日曜学校を開いていた般若寺別院やがて、弘義氏はある親子と出会う事になる。父親が事故で亡くなり、母親と子どもが二人残されたひとり親家庭。姉は脳性マヒがあり自由に動くことができず、妹はまだ幼く栄養失調気味だった。子どもたちを置いて仕事に行くことなどできず、親子ともども知人の世話になっていた。自分で働いて二人の子どもを養いたいと考えていた母親は、ちょうど檀家回りをしていた弘義氏にその窮状を泣きながら話したという。当時すでに日曜学校を通じて水島の保育事情の悪さを感じ取っていた弘義氏は、この出会いによって背中を押されるように保育園開設へと動いていくことになり、それが現在までつながる「社会福祉法人クムレ」の始まりとなった。まず考えなければならなかったのは園舎建設の費用だった。戦前、「般若寺」が所有していた土地の大部分は、戦後の農地改革によって国に接収され、わずか6反(約60アール)の土地を残すのみだった。そのうちの4反(約40アール)を売却し、60万円(現在の物価に換算すると約340万円:総務省統計局「消費者物価指数年報」より)の資金を得た。また「般若寺」の檀家総代が保育園の開園に積極的で、檀家を一人ひとり説得して回り、多くの檀家の理解と協力を得て小額借り入れることにより、建築資金を調達することができた。当時弘義氏は、岡山県議会議員・渡辺数馬氏、倉敷市議会議員・雨宮茂氏など地元の名士と広く交流があった。特に岡山県選出の国会議員・橋本昭和20年代?昭和50年代前半クムレ60年の歩み11