ブックタイトルクムレ60年の歩み

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概要

クムレ60年の歩み

昭和20年代の水島地域第二次世界大戦後の水島は、ほかの地域とは異なる成り立ちの街だった。戦前、「三菱重工業水島航空機製作所」がこの地に建設され、その従業員の社宅が旧東高梁川の干拓地にひしめくように建てられていた。戦後それらの住宅は国に接収され住宅用に払い下げられることになった。ただ住める家があるというだけで全国から多くの戦災者や引揚者が集まり、この地に定住した。あわせて第一次ベビーブームの到来もあり、昭和25(1950)年頃には水島地域(旧福田町と旧連島町)は約4万2000人の人口を有するようになった。旧三菱社宅部分には約2万人もの人たちが住んでいたという。しかし、そこにはただ家があるだけであって、都市機能が備わっているわけでもなく仕事もない。当時水島の住民の暮らしぶりはとても苦しく、食品や雑貨など商品を作って住民に販売する以外には、日雇い労働または水島地域より外に出稼ぎに出るか、失業対策事業で食いつなぐほかなかった。子どもの養育も十分でなく、両親が昼間家を空ける家庭は少なくなかった。場合によっては何日も帰らず家を空ける親もいたという。そうすると、誰かが昼間に乳幼児の面倒を見なければならないという状況が発生する。しかし明日の食い扶持を確保するのに精一杯だったこの時代の水島地域では、就学前の子どもの行き先が不十分だった。「児童福祉法」制定により、保育所は設置されてはいたが、公立の施設は保育時間が固定されていて融通がきかない場合が多くあった。そうした状況の中で保育所に行けない子どもたちが相当数いた。延長保育など柔軟に対応できる民間の保育園は、水島地域にはまだ一つ二つしかなく、潜在的な保育に対するニーズは岡山県内のほかの地域より高かった。昭和35年頃の水島商店街(倉敷市提供安藤弘志氏撮影写真)10